因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。1545年、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗する様な姿勢を見せる。1563年(永禄6年)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同年4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。1573年(天正元年)、出雲の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中鹿之介が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。1578年(天正6年)、美作の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の許に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の許に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石を以って召抱えたとされる。事実、明治元年(1868年)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。
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武田国信(豊前守)
武田高信(嫡男)
武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)